読書と知恵の実

4月に鈴木涼美さんの新刊発売記念トークイベントに行ったときからずっと考えていた内容を書く。

トークイベントの中で、成宮アイコさんから「読書をする男と読書をしない男を比べると、読書をしない男のほうが優しい」という話題が出たのをとても印象深く覚えている。

「読書をする男と読書をしない男を比べると、読書をしない男のほうが優しい」、これは自分の人生を振り返ってみるとなんとなく体感として正しい気がする。

読書にも色々あって、読む対象は小説だったり実用書だったり自己啓発書だったりするんだろうけど、何を読んでも、人は読んだものから他人の意見と、それに対する自分の意見を思いついて、あーだこーだと考えて、それを積み重ねることで「教養を身につける」んだと思っている。

一般に、読書するのは良いことだと言われていて、「悪いこと」とされるのは現代ではあまり聞かない。
そのせいかイベントで仲俣暁生さんが「読書によって得るものもあるけれど、失うものもあるよね」と言っていたのがものすごく心に残った。

教養を身につけた先にあるものは何か?
それは自分の生活がしやすくなったり、それまでの考え方を変えたり、プラスの働きがほとんどなんだろうけど、トークイベントでその話題を聞いて、もしかしたら「教養を身につけた自分」が他者より優れていると勘違いする「おごり」が発生してしまうのかもしれないとも思った。
これが「読書をする男より読書をしない男のほうが優しい」と感じる原因のような気がする。

今までの自分を振り返ると、読書なり学問なりよって「教養を身につけたことでおごった自分」だったことは絶対にあるし、その一方で、作家が書いた読書についての本を読んで「なんて自分は本を読んでないだろう、教養がないんだろう」と思ったことも何度もある。

そういえば旧約聖書でアダムとイブが楽園を追放されたのは知識の実を食べたからだよね、みたいなことを思いついて、検索して旧約聖書の創世記のごく最初の方を読んでみた。
人と女(アダムとイブ)は「善悪を知る実」を食べて、裸でいることが恥ずかしいと気づいて、いちじくの葉を集めて腰に巻いた、とあった。
「善悪を知った=教養を身につけた」ことによって「楽園を追放される=失う」わけだから、今私がここに書きながら考えていることは、太古の昔から考えている人がいるらしい。

もちろん読書や学問で教養を得ることは悪いことでは無いと思う。
でも「自分が教養を得たという認識」によって、他者に対し「おごる」ことのないように、謙虚に生きたいなあと思った。