無性に文章が書きたい

6日に行った書店で坂口恭平さんの『躁鬱大学』という本を買った。
まだ5分の2くらいしか読めていないのだけどあまりに刺激が強すぎて少しずつしか読めない。どういう意味かというと、めくるページめくるページ全部自分のことが書いてあるからだ。自己分析するよりこの本を読んだほうが早い。

うつ状態になると「どうしてあのときはああやったんだ」「なんでこんなもの買ったんだ」という後悔と反省しか無いのだけど、私には躁状態でもまともに生活できていた時期があったという記憶がある。

数年前に朝の4時に起きて取り憑かれたように同人小説を書いていた時期があった。
今思えばそれは完全に躁状態だ。書くのが楽しいと思うことにも波があって、あーつらいと思って書いた小説は自己評価も低く反応も少ないし、あーやばい自分天才じゃんと思って書いた小説ほど評判が良い。

自分天才じゃんと思って小説を書いている躁状態では、小説を書くことと同人誌を作ることに全力を注いでいるので、余計な買い物はしないしCreative Cloudと同人誌印刷代くらいしか出費がない。同人誌が売れたらそれもペイできる。
「はー書くの楽しい! 自分の発想力やばい!」などとTwitterや友人へのLINEでうざい発言をする程度しか周囲への迷惑をかけなかった(ご迷惑をおかけした・おかけしている皆さんには申し訳ないと思っています……これは本当に)。

躁状態マックスのときの記憶は、ほとんど小説の世界と変わらないでしょう。(略)
もちろん、その独創的な記憶はなにか創造的な仕事に有効に活用することが出来るかもしれません。いや、むしろ、そこにしか活用の道はないのかもしれません。

出典:坂口恭平『躁鬱大学』p69-70

この部分を読んですっきりした。もうこれしかねえ。別に創作で生活しようと思ってないし、仕事しないでこれからどうすんだという不安はあるけれど、文章を書いていれば楽しいし、私が小説を書くことで楽しいと思ってくれる人がいるなら一番いいじゃん。

それで2年ぶりに同人小説を書いていた頃のノートを引っ張り出して見てみると、起承転結がびっしり書いてあるルーズリーフが1枚出てきた。なぜここまでやっているのに書いていないんだ馬鹿野郎。
そう思ったけれど私はおそらく典型的な双極性障害の人なので、興味が移ってしまうと興味が薄れたことに向かうのが死ぬほど辛いので仕方がない。あーつらいと思って小説を書いていた時期はたぶん別のことに興味が移っていた。
ルーズリーフに文字を書き殴っていたときは興味がそこだけに向いていて、その後すぐに別のことに興味が移ったのだ。

仕事をせずに家にいるとやることがない。でもやることがないと悩んでいてもどうしようもないし、悩むと鬱スパイラルに突入する。じゃあ『躁鬱大学』に書いてあることに従って創造的な活動をしようじゃないかと思った。

ルーズリーフに書いてあるメモを元に小説を書くことにした。メモに書いてあることは今見ると破天荒すぎる。しかしその破天荒さがウケるのならいいじゃんと切り替えた。

一昨日は1500字くらい書いて昨日は2400字くらい書いた。過去の躁状態で小説を書いていた時にやっていたように、本文を全部書く前に表紙のデザインを作ったりあらすじの文章を考えたりもした。

わりと調子が乗ってきて今は小説以外にこの文章を書いている。
昨日は数駅先にあるデパートに出かけてみたけれど何も買いたいと思うものがなくてがっかりした(バレンタインチョコの催事を見つけてほっとした)。でも今は無性に文章が書きたいのだ。じゃあ書け。そういうわけで書いたこの記事は1500字を超えている。

とりあえず仕事をしないで家にいる間は文章を書こうと思う。